中国での仕事経験【ホテルニッコー大連(2012年)】

中国語実践者

こんにちは。おいもです。

私は20代の頃、2011年から2012年までの1年間北京の首都師範大学で語学留学をし、その後、2012年7月から1年間、中国の大連にあるホテルニッコー大連で日系向けの法人営業の仕事をしていました。

これから中国で働くことを考えている方のために、次のような観点で中国での就業経験を振り返ってみたいと思います。

  • 中国で働くのはどの様な事なのか
  •  中国語力はどれくらい必要なのか
  • 帰国後の就職活動にはどのような影響があったのか

そもそも、なぜ中国で仕事を探そうと思ったか?

大連賓館(旧 大連大和ホテル)

北京で1年間語学留学(2011年から2012年)をして、本を読むことやテストで点数を取ることは出来るようになりました。しかし、実際に中国語を使って現地の人と関わる経験があまり無く、普段から口数の少ない私はスピーキングに苦手意識がありました。

そこで、今まで習ってきた中国語を実際に使いたいし、向上させたいと考え、仕事を探すことを決めました。

中国における仕事の探し方

ホテルニッコー大連の外観

まずは、以前に日本で働いていた会社の上司が北京に戻っていると聞いたので、仕事を紹介してくれないかと依頼をしました。親切にも会って話を聞いてくれましたが、現地スタッフと同レベルの中国語レベルが必要だと言われてしまいました。中国ではツテを頼って仕事を探すことがあると聞いていたので、知り合いに聞いてみるのも一つの方法だと思います。しかし、当時の私の中国語レベルでは、日本語を必要としている枠で採用してもらうしかないと考え、日本人を募集している求人へ何社か応募をしました。

その中で、もともとサービス業の経験もあり、興味を持ったホテルニッコー大連へ就職することが決まりました。ホテルにはもともと日本語のカスタマーサービスの人もいたため、応募から採用までは全て日本語で行われました。

大連ってどんな場所

大連のレストランの水槽:実際に水槽の中の海産物を見て調理方法と共に注文します

大連は食べ物もおいしく、北京に比べて空気も良く、とても住み心地の良い都市でした。
北京では海の魚を食べる機会がありませんでしたが、大連は海も近い為、お刺身や魚介類を頻繁に食べる事も出来、茹でたシャコを人生で初めて食べて、おいしさに感動したことは今でも忘れません。

夏には「大連ビール祭り」が開催されます。冬は寒く、雪が降ることもある為、出歩く際には凍った地面に気をつけて歩かなくてはなりませんでした。

また、大連には路面電車が走っていて、日常生活で良く利用しました。多くの人が利用する為、停車の際には足に力を入れて立っていないと転んでしまう等、乗り心地は良くはなりませんが、無くてはならない交通手段でした。

働いてみて感じた中国と日本の働き方の違い

大連を走る路面電車

ビザなどの手配は採用いただいたホテルの会社が全て行い、私は一度日本に帰国をし、入社日数日前に大連に到着しました。仕事は、前任者からの引継ぎがある予定でしたが、中国では仕事を引き継ぐことや人に教える習慣はないようで、後任の挨拶には連れて行ってもらいましたが、実際に何をするのかは何の資料もなく、初めての職種で全くの手探りとなりました。

中国と日本では、仕事の仕方にも違いがありました。日本人の団体客が泊った際に、言語の面でもサポートが必要と思い、朝は朝食会場、夜は夕食会場と全て担当していたところ、中国人の同僚に「日本人客の場合、お客様を満足させないといけないから大変だね。私はこの団体のボスとなる人ひとりを満足させればそれでいいんだよ」と言われました。実際に泊るお客様と接することは楽しいし、頼られることにやりがいも感じていたので、そのような習慣の違いがあるんだなと受け止めました。

また、一度団体旅行の宴会で、ビールの冷えが甘いとの指摘がありました。当時、中国でビールが冷えていないことは良くある話でしたので、事前に宴会担当には何度も依頼をしており、直前に現場まで行って口頭で確認をしましたが、その際も「問題ない。良く冷やしている」と言われました。

冷蔵庫を空けてビールの冷えを確認するのは宴会担当の言うことを信じていないと思われ気分を害するかと思い、出来ませんでしたが、実際には冷やしていませんでした。この事は、とても良い勉強になりました。必ず自分の目で確認することが必要で、恐らく、宴会担当が冷やしていると言った時に「じゃあ見せて、触らせて」と言っても宴会担当は気分を害すことはなかったと思います。日本人の私は相手の気持ちを深読みして、遠慮してしまう習慣がついていましたが、これを機に変えていくことができました。

現地採用でお給料はいくらだだったのか

中国の人民元

私のお給料は6,000人民元で、食事と住居は別途支給。住居はホテルの隣のアパートに用意をしてくれ、寝室は2室、クイーンサイズのベットとバスタブの付いた、古いアパートでしたが、とても広くて綺麗にしてあるお部屋でした。
食事は昼は社食、夕方はホテルのレストランで食事して良いとの契約。日系のホテルだけのことはあり、お刺身や日本食が充実していて、これはとても有難いことでした。

様々なイベントがあって楽しかった

春節の社内お祝いイベントで踊った京劇

働き始めた目的が中国語のレベルアップだったので、現地のスタッフと出来るだけ接するようにしました。丁度同じ時期に入社をした大学卒業すぐの中国人女性と研修で一緒になり、仕事スペースも近かった為、お昼ご飯はいつも一緒に社食へ食べに行っていました。

その他でもイベントには積極的に参加をし、春節のお祝いでは京劇を踊り、バスで近郊の海へ行った際には会社の携帯電話がポケットに入っていることを忘れ、海へ入って壊してしまいました。。。同僚が修理をしてくれ、お咎めにはならずに事なきを得ました。

まだまだ言語面では不便はありましたが、こちらから距離を縮める気持ちでいることで遊びに誘ってくれることもありました。常に積極的な姿勢でいることは大切だったと実感。

仕事もプライベートも孤独なことが辛かった

大連の風景

初めての業種で引継ぎや指導がなかったことは、右も左もわからず辛い日々でした。
半年後、以前からホテル業界で仕事をしている日本人が入社をし、その方が色々と教えてくれ、そのころから少し仕事が楽しくなりました。

また、大連にはもともと知り合いはいませんでしたので、私生活での寂しさを感じることもありました。々自分より少し若いスタッフと遊びにいくことはありましたが、同僚は家庭や子供のいる人が多く、休みの日に会うことはなかったです。。

しばらくして、同僚の日本人に誘われ日本人コミュニティに参加をしました。ネット等で検索をすると色々なコミュニティがあり、もっと早くに参加をしておけば良かったなと思いました。

大きな案件を担当できたことは、自分の自信に

少しずつ仕事の仕方も分かってきたころ、取引のある旅行会社から日本からの団体旅行の見積依頼が来ました。法人営業の私にとってはとても大きな仕事です。同僚にサポートしてもらいながら、何度か交渉をし、その案件を取ることが出来ました。

旅行会社の担当の方は「日本人スタッフが多くいて、当日もサポートしてもらえることが大きなポイントになった」とのことでした。宴会のビールの冷えがいまいちだった、受付が部屋割り間違える、等のアクシデントがあり、裏ではバタバタとしましたが、大きなクレームになることは無く、無事にお見送りが出来た時は達成感がありました。また、大きな団体客だったため、インセンティブを得ることも出来ました。

その他には、日本の長野県の方から「日本物産展を開きたいから会場を探している」との連絡がありました。見学もしたいとのことでしたので、いくつか会場をご案内。有難いことに会場を使いたいと契約をしてくださり、物産展当日は出来る限りのサポートをいたしました。まだ言語には不安もありましたが、頼ってもらえることは自信に繋がり、物産展が終わった後、主催された方から、おいしいリンゴジュースを頂きました。

日本に帰国後の仕事にどう結びついたか

1年間、ホテルニッコー大連で勤務をし、日本に帰国した時、私は28歳でした。私生活では結婚もしたいと考える歳でしたので、家庭と仕事を両立でき、長く続けていけそうな仕事を探しました。結果的に貿易事務の仕事に就職することができました。

一般的に、貿易事務の仕事は英語が出来ると採用されやすいかと思いますが、採用してくれた会社は、私の中国語力を評価していただいたようです。中国との取引もあり、今後中国語の出来る営業さんと一緒に中国事業に力を貸してほしいと言っていただきました。

その貿易事務の仕事では、働き始めてみると中国に日本語の出来るスタッフが多くおり、あまり中国語を必要とする機会はありませんでした。ただ、採用してもらう際の私の武器となったことは間違いありません。

今はマレーシアで生活をしております。こちらでは英語がメインとなりますが、中国語も通じる場所が多い為、中国語も使いながら生活しています。

最後に、文化や考え方の違いに苦労することはありましたが、中国での就労経験は私の自信や強みになっていると思います。日本では食べられない食べ物を食べたり京劇を踊ったりと楽しい経験もたくさん出来ました。日本人向けの求人も多く、働きながら中国語を勉強することが出来るチャンスだと思います。

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おいも

中国東方航空に就職した際、中国語に興味を持ち学び始める。2011年中国に渡り、北京の首都師範大学で1年留学。その後ホテルニッコー大連で1年勤務。帰国後は、貿易事務をしながら2人の子供を出産。現在、マレーシアにて育児中。

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